2025/06/20

電脳の歌 スタニスワフ・レム

 スタニスワフ・レムの新刊「電脳の歌」を読み終えた。

 量子力学を学んでいた頃、本書の中核をなす「トルルルとクラパウツィウスの七つの旅」が「宇宙創世期ロボットの旅」というタイトルで集英社から出ていたのを読んで、今回の翻訳では「探険旅行その三、あるいは確率の竜」と題されている短篇に、笑い転げてしまった。量子力学が「竜子力学」(あるいは素粒子論が「素竜子論」)と呼べるものに翻案されていたからである。理解に苦しむ量子力学の根本の発想が、これほど面白い「おとぎ話」に換えられていた痛快さ。この瞬間に、自分にとってのSF作家のナンバーワンはレムだ、となって、その評価は今でも変わらない。この新訳で読み直したわけだけれど、40年前ほどには面白さを感じなかった。それは、量子力学の理解が自分の中で進んでしまったためか、それとも、この間に量子力学ネタの小説・映画をたくさん目にするようになったためか。今回読み直すと他の短編で現在の量子情報理論につながるものもあるのに驚く。この短篇集の作品は、1作を除いて主に1965年に書かかれていることも驚異である。現在の情報と物理学の重なり合い、最先端の科学技術の話題がすでに語られているのである。

 例えば、「探険旅行その六、あるいは、トルルルとクラパウツィウス、第二種悪魔を作りて盗賊大面を打ち破りし事」の第二種の悪魔は、マックスウェルの悪魔の本質を明確にしたシラードのエンジンに似ている。実は、シラードのエンジンなるものは最近、情報と物理学の関係の雑誌記事を読んで知ったので、昔読んだ時に比べるとこの短篇は面白く感じられた。1965年にシラードのエンジンを知っていたと思われるレムは、時代に先駆けた感覚を持っていたのだろう。シラードがこのエンジンについて最初に発表したのは1929年だけど、自分が物理学生だった頃はあまり話題になっていなかったが(逆に、情報のエントロピーと熱力学のエントロピーを同一視するのは危ないという注意の方がなされていたように思う)、このところ情報は物理だという考え方が一種の流行になっていて再注目されているのである。

 完全な初紹介の「ツィフラーニョの教育」は訳者泣かせの言葉遊びが特徴。特に「一人目の解凍者の話」は音楽用語が中心になったもので面白い。「二人目の解凍者の話」はどこが面白いのだろうか、と思って読んでいるうちに、唐突に終り、それで、この短篇も終わってしまう。はしごを外されて宙ぶらりんの状態に読者は置き去りにされる。何か深い意図はあるのかないのかも不明のまま。これもレムだ。

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2025/05/29

帰ってきた怪獣先生のソフビ怪獣展

Photo_20250529180901  SCMの中心メンバーである胡馬駿先生のソフビ展を見てきた。前回は見に行けなかったので、2回目の今回は行かねば、と新東名でC4ピカソを疾駆させたのであった。昔からソフビ人形やガチャガチャの人形の怪獣を集めていることは知っていたが(ダブってしまった快獣ブースカなどはもらったことがある)、これだけ展示されていると壮観である。退職して時間ができて、本物により近い色に塗り直したり、ツノを光るようにしたり、といった細工を施したもののできが、実に良い。こういうものの展示会が地元の文化施設でできて、平日でも見に来る人が途切れないというもの、彼と知り合った大学時代の頃からすると隔世の感。なんと、明日のテレビ静岡の「ただいまテレビ」という番組の中で生中継するとのこと(時間帯は18時20分くらい)。
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 久しぶり(2年ぶりくらいか)C4ピカソで高速道路を走った。タイヤをピレリのパワージィPOWEGYに換えて初めてである。タイヤ圧を高めに調整したばかりだったので、ちょっと跳ねる感じになり、グリップ力がプライマシーより落ちるのかなと思う。一方、ロードノイズは低く抑えられている印象である。80km/hくらいまでは乗り心地も良い。タイヤ圧が適正値だったら、多分、プライマシーと遜色ない乗り心地だろう。燃費もよさそうだ。コスパが良いタイヤだということは確実である。

 

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2025/01/26

マン・レイ、レン・ライ、ノーマン・マクラレン

 シネプラザ・サントムーンでマン・レイ4作品を集めた「リターン・トゥ・リーズン」を見てきた。夢見心地に誘われる映像にそれを増幅するスクワールの音楽がついていて、気を抜くと瞼が閉じてしまう。アニメーション史でも触れられる「エマク・バキア」「理性への回帰」をついに見ることができた。フィルムに直接描き込むノーマン・マクラレンの技法の源流と考えられる作品である。この技法は、レン・ライが推し進めて、マクラレンが受け継いだ。作品内容としては、当然だが、マクラレンの作品が一番洗練されていている。
「世界アニメーション映画史」に記述があった気がして調べてみたら、本文中では触れられておらず、レン・ライの技法についての注釈で「理性への回帰」について書いてあるだけだった。「エマク・バキア」にもアニメシーンがあるというのはどの本で知ったのだろう?不思議だ。
 他の2作(「ひとで」「サイコロ城の謎」)を含めたマン・レイの作品は、ムービー・カメラを初めて持った男子が撮りたい映像を撮って、そのまま見せているような面白さがある。大きいスクリーンでの上映だったが、他に見ている人がいなかった(貸し切りだ!)のが残念だなあ。

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2025/01/15

C4ピカソが活躍する映画

 「動物界」をシネプラザ・サントムーンで見てきた。冒頭、主人公の高校生が母の見舞いに病院へ嫌々連れていかれるときに乗り込んだ自動車のドアの形状、内装のデザインが、あれ、これは我が愛車に似てないか、と思った。そのうちにフロントとリアが映し出されて、旧型のグランドC4ピカソだった。このピカソ、母親を探すとき、クライマックスで森の中に逃げ込むとき、大活躍である。
 その森の中で道を外れ藪に突っ込んで止まったピカソから主人公が飛び降りてさらに奥に駆け出していくラストシーンで、主人公に、かならず生きのびろよ~と声をかけたくなった。こういう気持ちになったのは久しぶり。この感覚は「ぼくのエリ 200歳の少女」の時と似ている。「ロブスター」も連想させるけれど、こちらの方が未来への希望に満ちている。
 この作品の上映前に、マン・レイ×ジム・ジャームッシュの映画『RETURN TO REASON/リターン・トゥ・リーズン』の予告編をやっていて驚いた。リュミエールに続いてマン・レイが地元の映画館で見れるというのは信じがたい。

 で、そのリュミエールだが、シネマサンシャイン沼津で「リュミエール!リュミエール!」が上映されて見にいった。これは、リュミエールの会社で撮影された1本50秒の作品を110本まとめたものである。フォーレの音楽がつけられ、解説のナレーションが入る。1作品(メリエスのような作品)を除いて見事に修復されていて、黒白のパンフォーカスが美しい。19世紀末の記録としても価値がある(日本撮影のものもある)。ナレーションの訳が字幕で出るのだが、これが映画だという構図の画面を邪魔なしで見れる吹替版であってほしかったと思う。調べてみたら、前作にあたる2017年公開の「リュミエール!」は吹替版だったので、同じようにできなかったのかな。コッポラの2019年の「工場の出口」のリメイクがオマケでついている。

「ロード・オブ・ザ・リング ローハンの戦い」も見た。力作である。ラルフ・バクシの「指輪物語」を連想したり、3DCG背景のシーンでは、フライシャーの立体模型背景みたいだ、と思った。歳をとったためか、戦闘シーンが長く続くと、見ているのがしんどい。ガンダルフに会う続編が見てみたい。

 実は、今年の正月の初映画は「妖星ゴラス」。画像も音響もクリアで、二瓶正典(正也)の声ってこんな感じだったけ、と思う。今まで気にかけていなかった音楽が気になって石井歓について調べてみたら、かの石井真木の兄で、なんと我が母校の学生歌(歌った記憶はないが)の作曲者だった。来年は、ぜひ「宇宙大戦争」が見たい。

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2025/01/09

D.ボームには手を出すな!

 暮れにNHKで「量子もつれ アインシュタイン 最後の謎」を見て、買ったきり放置していたルイ―ザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』(ブルーバックス)を読んだ。
 学生時代、量子力学を学び始めた頃、ボームの「量子論」(隠れた変数理論)には手を出してはいけない、みたいな話があったのを思い出す。ランダウ=リフシッツの教科書が一世を風靡していた時代だったが、量子力学演習担当の助手は「ランダウの教科書では量子力学は使えるようになっても本質の理解はできない。朝永振一郎を読め」といい、量子力学の担当助教授は「朝永さんのはスピンの話がないのが欠点。もっとも間違いが少ないと言われているディラックの本でもここは間違っている」といい、和文タイプ打ち・数式手書きのプリント(ランダウをもうすこしかみ砕いた感じ)を作って講義していた。ベルの不等式についてのアスペの実験はちょうどそのころ行われていたのだが、話題にする先生はいなかった。
 その当時のクラスの指導教官だった助教授の息子さんが研究者になって「入門 現代の量子力学 量子情報・量子測定を中心として」という現在の量子力学の最先端がわかる本を書いている。これは3年くらい前に読んだが、量子力学は情報理論であるという立場で書かれていて、波動関数の収縮はない、観測により世界が分岐することもない、という説明は、波動関数は確率分布にすぎないのに観測したら「収縮する」という考え方を受け入れることができなかった自分には、腑に落ちるものであった。
 NHKの番組の方は、妻も一緒に見ていたが、「量子もつれ」の説明を見て、これは「もつれ」てないんじゃない、と言った。遠く離れた二つの粒子を測定して片方がAならもう片方もAになる、という遠距離相関(いわゆる非局所性)が強調されていたためだろう。

(補足)
 『宇宙は「もつれ」でできている』を読んで一番面白く思ったのは、ベルの不等式が成り立っていることを初めて実験で示そうとしたクラウザーの装置に、映写機に使われるフィルム送りの間欠動作を司る歯車が使われていたこと。この部分はNHKの番組では触れられていなかったと思う。
 さらに映画がらみでいうと、オッペンハイマーがボームの隠れた変数理論を取り合わなかったこと(ボームはオッペンハイマーの弟子で、オッペンハイマーの査問会に証言者として呼ばれ、自分たちが不利になる質問に対しては黙秘権を行使したが、合衆国にはいられなくなった)に対して、「ビューティフル・マインド」のモデルになったジョン・ナッシュがプリンストンでオッペンハイマーとやりあい、それが最終的な引き金になって、精神に変調をきたしたことも初耳で面白かった。

 

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2024/12/02

ゲームを捨て、野に出よう

 「リトル・ワンダーズ」をシネマサンシャイン沼津で見た。昔見た「グーニーズ」とかと同様の悪ガキ映画だけれども「スタンド・バイ・ミー」みたいな味もあるかもしれんと思いつつ見たが、子供も大人も女性陣が男性陣をリードするところが現代的な、案外ストレートなお子様冒険映画であった。ゲームするよりは余程面白い実体験をしているのに、やっぱり、ゲームをしたいのね、という終わり方。ゲーム始めたけど面白くないから山でキャンプでもしようとアリスがヘイゼルを誘う、なんていう終わり方を見たかった。

 ジョイランド三島で「画家ボナール ピエールとマルト」を見た。ボナールってこんな裸婦を描いていたのかと、家に戻って美術出版社「世界の巨匠 ボナール」を久方ぶりにしげしげと見直した。映画での再現された絵の方がエロスを感じさせるのは、モデルのマルト(セシル・ドゥ・フランス)の裸体も目にすることになるためか(ただし、一番エロテシズムを感じたのは、裸体ではなく、列車の座席に横たわるマルトのスカートの裾から出たふくらはぎの曲線であった)。チラシにも使われているラストシーンの絵は「花咲くあんずの木」という題で白黒図版だった。黄色が確認できず残念。アンドレ・テシネの「野生の葦」を思い出させるようなセーヌ川(の支流?)に裸で飛び込むシーンは、いかにもフランス映画だなと思う。ルネ(ステイシー・マーティン)という美術学生の愛人とのエピソードは創作のようだ。
 ボナールの盟友のヴュイヤールも出てきたので、「世界の巨匠 ヴュイヤール」も引っ張り出して眺めてみた。この映画の主要登場人物の肖像画を描いていて、ボナール夫妻は勿論、当時のサロンの中心にいたミシアやその夫ダナ・ナタンソン、更には自画像もあり、これらの肖像画に、演じた役者が皆似ている。不思議なのはマルトで、セシル・ドゥ・フランスはヴュイヤールの肖像画には似ているのに、ボナールの絵の中のマルトとはあまり似ていない。 
 土曜日に見に行ったのに観客は私一人(朝一だったからか)。こういう映画を上映することを決めたジョイランドに感謝。

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2024/08/03

めくらやなぎで眠る男

 ピエール・フォルデス監督「めくらやなぎと眠る女」を地元の映画館(シネマサンシャイン沼津、ここは「リンダはチキンがたべたい!」も上映してくれた)で見ることができた。日本語版(地元出身の磯村勇斗が主人公を吹き替えている。多分、このために地元の映画館で上映されることになったと思う)だけでなく英語版の上映もある!
 ということで、人が入らなくてすぐに上映が終わりそうな英語版から見た(予想していたように観客は少なく、自分を入れて2人)。英語のセリフが案外聞き取れて、なおかつ、そのリズムが心地良い。夜の回でいつもなら布団の中に入っている時間帯でもあり、後半、眠気に誘われる。退屈だから誘われるのではなく、描かれる世界の不思議なぬくもりに包まれるせいでもある。眠気に誘われるのは自分の波長に合う映画の証拠。日本語版もできるだけ早く見に行こう。監督の祖父ピーター・フォルデスの作品を連想させた変形のシーンあり。
 そして、磯村勇斗出演の日本語版も見た(平日の午後の回であったが案外人が入っている。やはり、磯村効果か)。吹き替えというより、こちらの方がオリジナルじゃないかという思えるほど。今回は前半で日本語のセリフのリズムに眠気を誘われるが、後半はそうならず、見逃した短いカットがいくつかあるのに気づく。黒澤明とキューブリックへの敬意を感じる。

 村上春樹の小説を読みたくなった(短篇を1つ読んだことがあるだけである)。

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2024/04/08

オッペンハイマーの二重性

 クリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」見てきた。3時間が長く感じられなかったのは、大学時代に物理を学んでいた時に知った凄い科学者たちが次から次へと出てくるからか。全くセリフがなく名前も呼ばれない、ボンゴを叩く若い科学者が出てくるのは、物理系の人にはすぐに誰だかわかるよね的なトリビアか(ファインマンである。今、「ファインマン物理」読んで物理の学び直しをしている最中)。ということで、ある程度オッペンハイマーについて知っている人間は、ノーラン特有の時系列が入り乱れる展開でもついて行けると思うが、登場する科学者についてはアインシュタイン位しかわからん一般的な日本の観客にはどうなのだろう? 日本公開が遅くなったのは原爆に関する扱いというよりも、案外この部分ではなかったのだろうか。

 ルイス・ストローズの査問の様子がこの映画における「現在」として扱われていることから思うのは、20世紀のアメリカ合衆国史において最大の汚点は、原爆の日本への使用ではなくて「赤狩り」だった、と多くのアメリカ人は考えてるのではないかということ。広島や長崎の被爆の状況が直接描かれないのは、オッペンハイマーに関する映画だからだということで納得は可能だが、オッペンハイマーが自責の念に囚われる悪夢的なシーンにもそれがないことからもそう思う。

 オッペンハイマーの物理学者の業績としてブラックホールについての最初の論文が出てくるが、なぜ、湯川秀樹の中間子論を欧米の科学者の中でいち早く評価して、中間子論を発展させる論文を書いたことには触れなかったのか。戦後、日本への贖罪かのように湯川のノーベル賞受賞に動き、プリンストンにも招いた、ということに全く触れていないのは、原爆の惨状を直接表現してないのと同様に、残念なことである。

 最初の方で量子力学における粒子性と波動性のイメージシーンが出てきて、ちょっと普通過ぎる視覚化と思った。その後も何度か出てきて、これは、オッペンハイマーその人のことをも象徴しているのだと思い至った。粒子性と波動性のように両立するとは思えないもの(愛国者とコミュニスト、ジーンとキティ、研究者生活と家庭生活、原爆開発者と水爆反対者、科学的成果の公表と軍事機密の守秘義務等々)がオッペンハイマーという人物に付きまとう、ということを、ノーラン監督が描きたかったのだ。これもまた、ノーランらしさ。

 そのノーラン監督の処女作「フォロウィング」が上映されるようになったので見てきた。処女作にはその作家の総てが胚胎されていると思うことが多いが、まさにそういう作品だった。ノーラン作品の特徴の総てがこの中にあり、この処女作が一番面白い、と思ってしまう。

 

 「オッペンハイマー」を見てマンハッタン計画を詳しく知りたくなった人には、リチャード・ローズの「原子爆弾の誕生」を読むことを勧めたい。上下2巻で、2巻とも分厚いが、原爆開発を科学的な原理からきちんと書いている本は他にない。

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2024/03/28

砂の惑星と流転地球

 SF映画の大作を2作「デューン砂の惑星PART2」「流転の地球 太陽系脱出計画」を見てきた。その感想。

「デューン砂の惑星PART2」は公開されるのを待ていた作品だった。前作と同様に原作を丁寧に映像化していて、これで最後まで描かれるのかと思ったら、原作とは違った展開になり、この続きが見たいと思うちょっと驚くラストシーン。全体を通して思うのは、同じ監督の「メッセージ」にも通じる、未来がわかっていても、今この瞬間の自由意思で望む未来を切り開けるはずだということ。映像表現としては、砂虫を乗りこなすシーンが白眉なのであるが、新鮮な驚異を感じないのは、原作小説の影響下に生まれた多くの映画(トレマーズ・シリーズその他、「風の谷のナウシカ」など)で似たシーンをすでにみてきたためだろうな。

「流転の地球 太陽系脱出計画」は全然知らなかった作品だが、シネプラザ・サントムーンで上映されていて、「三体」の作者の短篇が原作だというので見に行った。映画では初めて見る宇宙エレベータや、月面での作業のシーンで「SFは絵」だからこういう「絵」が見たいというショットがあって、久々の宇宙SF映画の快作だと思った。東宝特撮映画を思わせる部分もあり、メインストーリーは「妖星ゴラス」のパワーアップ版だなと思う。これに絡むサブストーリーは「2001年宇宙の旅」的なAIの話。今年の午前十時の映画祭に「妖星ゴラス」が選ばれたのはこの作品があったからなのかな、とも思う。原題には最後に2が付いているので1があるわけだけど、日本での公開は? 1を見ないでも十分見れる映画ではあるけれど。調べてみたら、1はこの作品の後の時代の出来事を描いたものらしい。

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2024/02/03

「哀れなるものたち」小説と映画と

 映画を見る前に原作の小説を読んでおこうとアラスター・グレイ「哀れなるものたち」を一気に読了。一筋縄ではいかない「哀れなるもの」とは何(誰)か。それを映画ではどう切り取って表現してるんだろうか。すごく楽しみだ。映画を見た人が、何じゃこれ、と思うならそれはそれで原作通りともいえる。

 アラスター・グレイの小説は「ラナーク」を読んだことがある。4巻からなる作品だけども、3巻から始まるという不思議な作りの作品で、画家でもあるので、奇妙な味わいの自作のイラストもたくさん入っている。巻頭のこのイラストに、人体解剖図のようなものがあり、これは「哀れなるものたち」につながるイメージ。1,2巻と3,4巻で違う話になっていて、最後の方で、これは親子の話であって繋がりがあるらしいとなんとなくわかるというもの。この不思議な、SFでもありミステリーでもありゴシック・ロマンでもあり、作者の自伝的要素もある実験小説は読んでいて面白かった。

 そのグレイの作品を原作とした、「ロブスター」というこれもまた奇妙な印象に残るSF映画のヨルゴス・ランティモス監督の映画である。これは、見逃してはいけないと、原作を読み終えた次の日に見てきた。原作では手紙の書き方や内容の変化で表されている、主人公ベラ・バクスターの幼児から大人の女性への精神的成長を、エマ・ストーンが見事に演じているのが凄い。その演技以上に、良いと思ったのは、不安を掻き立てるような音楽。フランケンシュタイン物と思わせといて実は・・・という部分は原作より弱くなっているのがちょっと残念。原作は、ありえない物語を実際に起きたことだと思わせるための仕掛けがなされているが、映画の方では、寓意的ファンタジー世界の画作りであった。

 色々なところが原作から改変されているが、まったく違っているのはクライマックスのシーン。この改変はそれなりに理解できる(原作の対応する部分はちょっとモタモタ感がある)が、このクライマックスに至る直前のパリの娼館でのエピソードで、フェミニズム観点から原作を切り取っているように思われるのに、男性医師による性病定期検査をカットしてしまったのはなぜだろう。主人公の自覚の強さを示せるし、監督好みの衝撃的映像も作れるのに。

 原作は、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」のようでいて、H.G.ウエルズへの意識も相当にあると感じるのであるが、映画では、それが直接的には表わされていない。ただ、ラストシーンでそれを暗示しているようには思われる。

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