2023/05/14

ティファニーで昼食を

 去る金曜日、家族で伊豆高原方面に出かけた。娘がテディベア・ミュージアムとニューヨーク・ランプ・ミュージアム&フラワーガーデンに行きたいと言ったのが発端。妻が城ケ崎海岸の有名な門脇吊り橋&灯台に行ったことがない、ということだったので、じゃそのあたりを周ろうということになった。娘が小さい頃にかなり頻繁にこの方面に遊びに行っていたが、伊豆急の線路を越えた側には行ったことがなかったのだった。
 それで、ドライブのルートであるが、伊豆高原駅への最短ルートということで、本当に久しぶりに冷川から中伊豆バイパスを通るのではなく、遠笠山道路に出る狭い県道を通った。この道を始めて通った40年近く前に比べれば道幅は広く走り易くなっているが、何か所か対向車との行き違いに気を使うところは残っている。前回ここを走ったのは確か、シトロエンC4に乗り始めたばかりの頃だったと思う。大室山のふもとの蝋人形美術館の交差点にこんなにすぐについてしまうのか、と思った。天気が良くドライブ日和である。

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 最初の目的地テディベア・ミュージアムでは、スタジオ・ジブリ協力の「となりのトトロ」の特別展もやっていて、実物大のネコバスの中に乗ることができたり、設定資料の基づいて人形を作ってます的展示があって設定資料(の拡大コピー)も見ることができた。本体のテディベアの方は、その起源であるセオドア・ルーズベルトについての説明部分の展示が一番興味深かった。ついこの間、テディ・ルーズベルトが大事な役回りで登場するジョン・ミリアスの「風とライオン」を見たばかりであったので余計に気になったのである。同じクマつながりで、プーさんや3匹のクマに関するものを多数あり、ちびくろサンボと一緒に描かれた絵もあって、この絵が見れたことが今回の最大の収穫。併設のカフェでちょっと遅めのティータイムをとり、やはり併設のクッキー屋さんで土産のクッキーを購入。

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 続いて、門脇灯台&吊り橋に向かう。一番近い駐車場に行こうとするが、テディベア・ミュージアムからこの方面に向かう道は初めてで、所々で間違う(ナビは付けていない)。吊り橋遊歩道駐車場→という看板があってこれかと思って進んでいったら、そこは、吊り橋の後に行くつもりだったニューヨーク・ランプ・ミュージアム&フラワーガーデンの大駐車場で、昔、遠足でよく来た海洋公園の駐車場であった。海洋公園がリニューアルしてニューヨーク・ランプ・ミュージアム&フラワーガーデンとなっていたのであった。それで、とって返して、元の道の戻り、門脇吊り橋最寄り駐車場へ。ここもはるか昔に来た時とは違って整備された市営駐車場になっていた(駐車料金500円)。

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 再びニューヨーク・ランプ・ミュージアム&フラワーガーデンに戻り、駐車場から遊歩道に少し入った所にある東屋で、おにぎり昼食。本日の目的は、2つのミュージアムに併設されたカフェでお茶することなので、昼食は質素に済ますのである。で、ニューヨーク・ランプ・ミュージアム&フラワーガーデン入園である。フラワーガーデンの様子は海洋公園の庭園だった時から変わっていなかった。最近はやりのアンブレラ・スカイなる部分もある。海岸の方に目をやると蓮着寺前の海岸のあたりに海に突き出た岩と岩を結んで鯉のぼりが泳いでいる。ランプ・ミュージアムではアンティークティファニー作品が展示されている。この別館が海を見渡せる(伊豆大島が良く見えた)テラスのあるカフェになっている。個人的には南フランスあたりのリゾート地に来た気分でちょっと早い午後のティータイム。結局、ティファニーでデザートを、である。

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 本日最後は、このところこの方面に来た時には必ず寄っている「まぼろし博覧会」。昨年、いろいろなTV番組で取り上げられて入場者が増えたせいか、展示ルートが整備され、近隣の飲食店の案内チラシが、昭和の混沌の中にあったりする。全共闘の夢の後、みたいな感じの、この猥雑なカオス! 昨年来た時にはできていなかった広島のストリップ劇場の再現展示が完成(?)している。小学校低学年の時買ってもらって遊んだ記憶のあるディズニーの家庭盤(ボードゲーム)が無造作にあったり、ポパイとオリーブの年代物の人形があったり、日本だけでなく海外アニメのキャラクター商品もあるのがいい。

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2022/01/22

スタニスワフ・レム「地球の平和」

 昨年暮れに発売されていた、レムの「地球の平和」を読み終えた。泰平ヨン・シリーズの最終作でレムの最後から2番目の長編。よく訳してくれました、ありがとう、というのが第一番の感想。最後の長編「大失敗」よりも面白く、こちらの方がレムの集大成の作品らしく感じる。本書の第一のテーマである、右脳と左脳の分離というのは、P.K.ディックの「スキャナー・ダークリー(暗闇のスキャナー)」を思い出させる。ディックからの影響は何かあったのだろうか? 「インヴィンシブル」からの流れをくむ、小型分散化の方向に自動進化した兵器がもう一つのテーマ。難解な文章が続いたかと思うと、突然挟まるハリウッド映画のようなアクションシーンがアクセントになっていて、飽きさせない。読んでいて楽しかった。読み終わってしばらくしてから、この結末はウエルズの「宇宙戦争」じゃないかとも思う。

 タイトルの「地球の平和」(英語で、Peace on Earth)は聖書のルカ伝からとられたものであるが、同じ言葉をタイトルにしたMGMのヒュー・ハーマン監督の1939年作の漫画映画があって、この作品は、世界大戦で人類が滅亡した地球で生き残った動物たちが人類の犯した過ちを繰り返さないように平和に暮らしていくのだ、という作品だった。「まんが宇宙船」という番組で「動物たちの国づくり」というタイトルで放映されたのをみて、第一次世界大戦の西部戦線の様子を基にリアルにアニメ化したシーンの悲惨さと人類の真似をしてはいけないよと言われる動物の子供たちのかわいらしさの対比が印象に残る佳作であった。レムの本を読みながら、この作品のことも思い浮かべていた。

 

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2021/06/19

トマス・ピンチョンのブリーディング・エッジ

 ピンチョンの新作「ブリーディング・エッジ」読了。主人公から極端に離れることなく叙述されていくので、ピンチョンの小説としては今までになく読み易い。2001年のニューヨークが舞台で、9.11に関わる国際的陰謀(?)に気付いた2児の母マキシーンのアニメ的探偵アクションと昼メロ的ホームドラマが、アクロバット的に結合している。百科全書的と言われるあらゆるものにこだわった記述はこの作品でも全開。年代的にインターネットやゲーム(ナムコのアーケードゲームやニンテンドーの家庭用ゲーム機からネット上の怪しげなものまで)に関するものが多い。そういう意味で、現在の若者がピンチョンを初めて読むには最適な作品だと思う。
 個人的には、「ダフィー・ダックみたいに暴れたくなる衝動」「平和目的の活動をする、モスラみたいなバタフライ」といういつもの調子の表現にニヤリとし、ロシア系登場人物の「『霧につつまれたハリネズミ』、あれは史上最高のアニメーション映画」というセリフに思わずひっくり返る。また、自動車に関する記述もマニアックなのだが、その中でも、「シトロエン・サハラは六十年代に製造された時代物で前後二基のエンジンを付けた砂漠仕様の四輪駆動、(中略)ふつうの2CVと同じに見える」には宮崎駿か、と思う。
 巻末にニューヨークの地図があり、帯には、主要登場人物(47人)一覧があり、本文を読みながら、ここはどこ?あれ、この人、誰?、と思った時に役立ってありがたかった。

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2018/09/10

スナフの二等兵

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 買ってからだいぶ放置してあった、ワーナーの軍人教育用アニメ・シリーズのPRIVATE SNAFU GOLDEN CLASSICS (BD)を見た。1943~45年に作られたもの。フリッツ・フリーレング、フランク・タシュリン、ロバート・クランペット、チャック・ジョーンズという当時の演出4人組が交代で制作。4人の違いが通常の作品群を見るより良くわかって面白い。フライシャーの影響も見え隠れする。ヘイズ・オフィスの自主検閲にはかからず、軍の要求する内容さえあれば予算以外に制約がないので、普通の作品ではできない表現をそれぞれが自由に試みている。これは、特に、ジョーンズ演出作に顕著である。また、戦地の兵士には半裸の美女(この美女の描き方も四者四様で面白い)を出せばうけるというノリがあって、これがなかなかいいのである。アヴェリーの赤ずきんちゃん(狼に追いかけられる踊り子)みたいな踊りが出てきたりする。
 もともとこのシリーズは、 Army/Navy Screen Magazinというプログラムの一部で、軍がディズニーに作らせようとしたが、制作費などの条件が合わずにワーナーに回ってきたもの。他のスタジオも同様の作品を作っている。それらがおまけとして収録されている。

収録作品は次の通り。

1 COMING SNAFU 1943 チャック・・ジョーンズ
2 GRIPES 1943 フリッツ・フリーレング
3 SPIES 1943 チャック・・ジョーンズ
4 THE GOLDBRICK 1943 フランク・タシュリン
5 THE INFANTRY BLUES 1943 チャック・・ジョーンズ
6 FIGHTING TOOLS 1943 ロバート・クランペット
7 THE HOME FRONT 1943 フランク・タシュリン
8 RUMORS 1943 フリッツ・フリーレング
9 BOOBY TRAPS 1944 ロバート・クランペット
10 SNAFUPERMAN 1944 フリッツ・フリーレング
11 PRIVATE SNAFU VS MALARIA MIKE 1944 チャック・・ジョーンズ
12 A LECTURE ON CAMOUFLAGE 1944 チャック・・ジョーンズ
13 GAS 1944 チャック・・ジョーンズ
14 GOING HOME 1944 チャック・・ジョーンズ
15 THE CHOW HOUND 1944 フランク・タシュリン
16 CENSORED 1944 フランク・タシュリン
17 OUT POST 1944 チャック・・ジョーンズ
18 PAY DAY 1944 フリッツ・フリーレング
19 TARGET SNAFU 1944 フリッツ・フリーレング
20 THREE BROTHERS 1944 フリッツ・フリーレング
21 PRIVATE SNAFU IN THE ALEUTIANS 1945 チャック・・ジョーンズ
22 IT'S MURDER SHE SAYS・・・1945 チャック・・ジョーンズ
23 HOT SPOT 1945 フリッツ・フリーレング
24 OPERATION SNAFU 1945 フリッツ・フリーレング
25 NO BUDDY ATOLL 1945 チャック・・ジョーンズ
26 SEAMAN TARFU IN THE NAVY 1946 George Gordon,Harman-Ising
27 A Few Quick Facts AIR TRANSPORT/SHIPS/CHINA/FIRE 1944 MGM
28 A Few Quick Facts US SOLDIER/BULLETT/DIARRHEA DYSENTARY 1944 MGM
29 A Few Quick Facts USS IOWA/BRAIN/SHOES 1944 MGM
30 A Few Quick Facts CHAPLIN CORPS/ACCIDENTS/GAS 1944 MGM
31 Voting for Serviceman Army/Navy Screen Magazin Special 1945 Wailt Disney
32 A Few Quick Facts INFLATION 1944 UPA
33 A Few Quick Facts FEAR 1945 UPA
34 The GI Bill of Rights 1945 Wailt Disney

 太平洋戦線を舞台にした3、4、16、17、24、25には典型的な日本人兵士が出てくる。特に24は日本本土に潜入する話で怪しげな日本軍の中枢が描かれている。10はタイトルからわかるようにスーパーマンのパロディで、なんと当時フライシャーが作っていたアニメ版のテーマ曲がそのまま使われている! その上、動きもそっくりである。

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2015/11/07

キューバのアニメーション史

 以前、フアン・パドロンの「ハバナの吸血鬼」というキューバの長編アニメについて書いたのだけれど、今年のアニメ総会でキューバのアニメを紹介しようと、キューバのアニメについて何か文献はないかと捜して、かのベンダツィ先生の「アニメ百年史」Cartoonsの中に見つけて、訳してみた。

 

  Giannalberto Bendazzi:Cartoons(1994年)より 

 

キューバのアニメーションの最初の作品は、Napoleón,el faraón de los sinsabores(ナポレオン、苦悩する専制君主;1937年)、漫画家のマヌエル・アロンソManuel Alonsoの2分の黒白作品である。原作の漫画はEl pais gráficoの日曜版に連載されたもので、このフィルムは大成功を収めたが、アロンソのアニメーションでの仕事を十分に支えるほどではなかった。そのすぐ後の画家のロゼニャーダRoseňadaとシルビオSilvioのMasabiというキャラクターを用いたアニメーションの企画は失敗に終わった。
 グアンタナモでルイス・カスティーヨLuis CastilloがCoctel musical(音楽のカクテル;1946年)を製作した。そのタイトルにもかかわらずこの作品はサイレントだった。さらに、El jíbaro y el cerdito(農夫と子豚;1947年)を製作。一方、セザー・クルツ・バリオスCéser Cruz Barriosに率いられたグループがサンティアゴデクーバで設立された。何作かの実験の後、このグループはキューバで最初のカラー短編El hijo de la ciencia(科学の子;1947年)を発表した。この作品は大成功とはいえなかったが、彼らはドキュメンタリー、ニュース映画、実写映画に興味の中心をおき続けた。
 1950年代に、限られた期間の広告やテレビ業界の発展で少数の作品が作られた。広告代理店Agencia Siboneyが何人かの若い画家を雇った。彼らは後にキューバ最初の真にアニメーションと呼べる作品を作った。
 1959年3月24日、カストロ革命の後に、Instituto Cubano de Arte y Industria Cinematográfico(ICAIC;キューバ芸術映画産業協会)が設立され、アニメーションに関わる小さな部署がその中にできた。この部署のリーダーはヘスース・デ・アルマスJesús de Armasで、イラストレーターのエデュアルド・ムニョーズ・バッチスEduardo Muňoz Bachsや他の共同制作者と仕事をしていた。このときの最初の作品はLa prensa seria(真面目な出版社;1960年)だった。それは大人の観客を意識した政治的な諷刺で、次のような意図があった。すなわち、
 「・・・私的出版で出された名誉毀損と嘘の公開告発および、それに対して規制が必要であるという声明である。美術的には、UPAで典型的に使用されているグラフィックな表現を採用している。」
 ヘスース・デ・アルマスは、新しい社会を再建するための支援を見出すことを目的とした行動主義者に関するフィルムの製作を始めた。El tiburon y las sardinas(サメとイワシ;1961年)は帝国主義と革命の間の闘争について議論していた。La raza(1961年)は人種差別の不合理さを展開した。La quenma de la caňa(籐畑の火;1961年)とRemenber Girón(ヒロンを忘れるな;1961年)はアメリカ合衆国の侵略の脅威を図解した。デ・アルマスは、最初の「物語」アニメーション映画El cowboy(カウボーイ;1962年)も監督した。1967年に彼は画業から引退したが、ア二メーションの世界とは関係を持ち続けてキューバにおけるアニメ製作を手助けした。
 この時期の最も興味深い作品は、Los indocubanos(キューバインディアン;1964年)である。モンデスト・ガルシア・アルバレスMondesto Garcia Alvalez(マタンサス、1930年生)が監督した。優雅なペン画で作られた歴史映画で、ヨーロッパ人が到着する前のキューバの人々を共感的に描いていた。この映画に使用された絵は後に同じタイトルの本になった。スパニヤード・エンリク・ニカノールSpaniard Enrique NicanorのEl gusano(虫;1963年)も同様にこの時期の注目の作品である。
 1960年代半ばのキューバのアニメは様々な理由で下り坂となる。外国、初めはアメリカ、後にはチェコスロバキアとポーランド、の影響で、キューバのアニメーションの自発的な活動を低下させてしまった。また、教育映画は常にキューバで制作されてきた。例えば、El realengo(王室の家督;1961年)、あるいは、ヘスース・デ・アルマスのAEIOU(アエイオウ;1961年)。このような教育映画は政治的な作品や芸術的な作品より優先されてきた。
 1965年に、ルイス・ロヘリオ・ノゲラスLuise Rogelio Noguerasの Un sueňo en le parque(公園の展望;1965年)というキュービズムの影響を受けた平和主義者の作品が、洗練され知的過ぎて観客の要求を満足させられないと批判された。もっと伝統的で民族主義的な文脈では、エルマン・エンリケスHermán HenríquezがOsaín(1966年)で民間伝承を脚色し、同様に民間伝承に触発されたOro rojo(赤い黄金;1969年)で賞賛された。レイナルド・アルフォンソLeinald Alfonsoは、伝統的な歌を元にしたQuiero marinero ser(水兵になりたい;1970年)で人気を得た。教育映画の分野では、中心人物はオーストラリア人画家のハリー・リードHarry Readeで、反帝国主義者のパンフレット、La cosa(物)を製作した。
 1970年代の初頭に、ICAICのアニメーション部門は再編され、再出発した。子ども向けの作品を作ることが望まれて、キューバの権威者たちはアニメーションに向かった。国内の何箇所かで、子供たちにとって何が適当で何が適当でないか定義する会議が開かれた。と同時に、アニメーションはその教育的目的を維持せねばならず、その表現手段は子供たちの要求に適合せねばならなかった。2つのカテゴリーが作られた。その1番目は2歳から7歳で、2番目は8歳から14歳であった。1番目のグループに対応する作品は動植物に命を与えたファンタジーで会話は制限された。より年上の子供たちに対する作品は、良く考えられたキャラクターとプロットを持つアクションとアドベンチャーに焦点が当てられた。トゥリオ・ラッヒTulio Raggi(ハバナ、1938年生)とマリオ・リバスMario Rivas(サンタクララ、1939年1月29日生)は主に若い方のグループ向けの作品を作り、フワン・パドロンJuan Padrón(カルデナス、1947年1月29日生)(訳注:本人のプロフィールと出身地が違うがどういうことなのか?)は年上の子供たち向けの仕事に特化していた。
 これらのアーティストたちの貢献は1980年代に入るまで続き、この時代にキューバのアニメーションのスタイルの実験が始まり、大人向けのテーマが発展し始めた。1964年にEl profesor Bluff(ブロフ先生)でデビューしたラッヒは、El cero(ゼロ;1977年、数学)El tesoro(宝物;1977年、地理)のような楽しい教育映画や次のようなキューバの歴史に基づく3本の映画を発表した。El negrito cimarrón(小さな黒人の逃亡奴隷;1975年)、El trapiche(きび引き器;1978年)、El palenque de los esclavos cimarrones(避難所;1978年)。最後の作品は黒人奴隷の反乱と山岳地帯への逃避に基づいている。1983年にラッヒはEl alma trémula y sola(震える孤独な魂)を製作した。これは建国の父ホセ・マルティJosé Martíの追放に関するアダルトな主題についての静止画で作られた作品だった。そのタイトルはマルティによる詩の一節そのものである。1890年のニューヨークの濃い空気の中で、この作品は暴動への準備をしている間のマルティの日常の雑事と記憶を描いている。
 マリオ・リバスはParque forestal(森林公園;1973年)でデビューした。彼の子供向けのたくさんの作品の中には、Feucha(みにくい女の子;1978年)やLa guitarra(ギター;1978年)がある。1981年にEl deporte nacional(国民の娯楽)というキューバで特別に人気のある野球の発展と拡散についての作品を監督した。真面目な教育者であるリバスはFilminuto(ハバナのスタジオの様々な作者による短編のコレクション)のシリーズの中のエピソードで刺激的なユーモアを見せた。彼の最高傑作と考えられているのは、El bohío(1984年;ヤシの木の小屋)である。ヤシの木の小屋は国への侵略者により何度も何度も破壊されるが、カストロによる独立の宣言まで、ある家族により毎回再建される。ギャグとリズムに富んだキューバの歴史についてのこの簡明な小論は、巧みなイデオロギーと娯楽のミックスである。
 次のようなコミック・ブックのアーティストもアニメーションに貢献した。例えば、マヌエル・’リロ’・ラマールManuel'Lilo'Lamar(マトホMatojoという彼のキャラクターとともに)、セシリオ・アビレスCecilio Avilés(セシリンCecilínとコティCotiとともに)、そして、とりわけ、フワン・パドロン。15歳のときからパドロンは二メーションに興味を示していた。フワン・パドロンは、ヘスース・デ・アルマスのスタジオで一時期基本的な仕事を学んでいだ。さらに、アーティストとしての彼の教育はコミック・ブックで始まった。1970年に、エルピディオ・バルデスElpidio Valdésという彼のキャラクターは、子供週刊誌Pioneroのページで生まれた。バルデスは「マンビmanbi」、すなわち、スペインの植民地主義者と独立のために戦う、19世紀のキューバの愛国者である。風習や物、制服、さらには食べ物まで広範囲の調査の末に、パドロンは子供たちの先祖の生活の歴史的に正確なイメージを提示した。コミック・ブックで語られた長編「小説」として、また、同様にアニメーションとして。
 パドロンは、Elpidio Valdés contra el tren militar(エルピディオ・バルデス対武装列車;1974年)で監督デビューした。同じようなエピソードの続編がそれに続いた。1979年、ICAICの20周年の機会に、Elpidio Valdés(エルピディオ・バルデス)と題されたキューバで始めての長編アニメーションを製作した。2本目の長編Elpidio Valdés cóntra dolar y caňón(エルピディオ・バルデス対ドルと銃;1983年)で、その受けの良い反逆者は依然として独立のために戦っていた。今回は武器販売業者やスペインのスパイに立ち向かった。漫画漫画した絵と程良い量のユーモアで作られていて、これらのアドベンチャー映画は若者たちの間で大人気になっただけでなく、学者たちの間でも人気が出た。
 多産なアーティストであるパドロンは別な企画でも同じように働いた。その中には、賞を取った短編La silla(椅子;1974年)やLas manos(両手;1976年)がある。1980年に彼はFilminutoを始めた。1985年に、アルゼンチンの漫画家でユーモリストのホアキン・'キノ'・ラバドJoaquin 'Quino' Lavadoとの共同制作でQuinoscopioのシリーズを開始した。その同じ年に3作目の長編Vampiros en la Habana!(ハバナの吸血鬼)を発表した。吸血鬼が日中活動できる発明の陽気な大騒ぎの物語である。ホラー映画とギャング映画の結婚、それは、「楽しい露骨な戯画」とヴァラエティVariety紙で歓迎された。注目すべきユーモリストのパドロンは、その膨大な作品において、文化の要求と娯楽の必要性を結びつけバランスさせた。と同時に、彼と同世代のキューバのアニメーターたちに対してリーダーシップを発揮した。

 

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2015/02/22

注文したのを忘れていた本

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amazon.comから、'DISNEY DURIG WORLD WAR Ⅱ HOW THE WALT DISNEY STUDIO CONTRIBUTED TO VICTORY IN THE WAR’JOHN BAXTER/Disney EDITIONS;2014 が突然届いてびっくりしてしまった。大分前に予約注文していたのを忘れてしまっていたのだ。

 内容は、タイトルにある通りで、第二次世界大戦中のプロパガンダ作品(「総統の顔」「空軍力の勝利」などなど)や兵士などのトレーニングフィルムについて、さらには、military insignia という戦闘機や爆撃機の機体などに描かれる部隊のマスコット・キャラクターについて(Hank Porterという画家が中心になって無償で製作した・・・)、ディズニーのアーカイブになる資料を元にして書かれた本である。プロパガンダやトレーニング・フィルムはDVDやネット上でかなりの数見ることができるが、それらがどのような目的でどんなスタッフで作られたかは、このような本がないとわからない。

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 戦時中に企画されて結局は製作されなかったGremlinsについても1章が割かれていて、残されたキャラクター・デザイン表などがカラーで掲載されている。このグレムリンのデザインは、ワーナー漫画の短編「クレムリンからのグレムリン」Russian Rhapsoday(1944年ロバート・クランペット演出)などに出てくるグレムリンにそっくりである。ロアルト・ダールの「グレムリン・ロア」に使われた挿絵か何かに原型があるのかなあ?この本に載っているディズニー・バージョンのグレムリンには女の子(というより女性というべきか)がいて、これがディズニーらしからぬ色っぽさ。

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2014/09/28

レオ・サルキンについての覚書

 「ミッキーマウスのストライキ」の後ろの方に、レオ・サルキンというディズニー・プロの1941年のストライキに参加したことで他のスタジオに移ることになったアニメーターの名前が出てくる。このレオ・サルキンという名には覚えがある。ところが、その記憶が怪しくなっているのに気がついた。それで、これ以上記憶が失われる前に、ここに今覚えていることを書き残すことにした。

 レオ・サルキンの名を知ったのは、第3回広島アニメーション・フェスティバルのときである(と書いたが、第2回だった可能性もある)。故・望月信夫さんから、ワーナーなどのアニメーターだったという人がアメリカから来ている、あそこにいるレオ・サルキンという人だ、知らない名前だが、機会があったら色々聞いてみたい、と教えられた。 (「ミッキーマウスのストライキ」にはちょうどこの時期のレオ・サルキンの写真が出ているが、その姿は私のかすかな記憶と余り違わない。)これだけだったら、サルキンの名前を今まで覚えていることはない。その名を記憶することになったのは、その年の秋に行われたアニメーション全国総会のときに、アニメ研究家・評論家のおかだえみこさんが広島での出来事を話した中に、サルキンの名前が出てきたからだ。広島に来日していた高名な誰かの記者会見かシンポジウムか何かで(これを忘れてしまったのが残念)、質疑応答の時間に、レオ・サルキンが、ここで話題になっている作品について持ち上げておいて、それらの作品を作っているアニメーターなどの労働条件に関して鋭い質問をしたと、おかださんが強い印象を受けたこととして話をしたのだった。

 「ミッキーマウスのストライキ」を読んで、レオ・サルキンがなぜそういう質問したかの背景が分かった。ちょうどその時期に、アメリカにおいて、アニメ製作の海外移転が普通になり、デジタル化も進んで、雇用状態が悪い方(別な言い方をすると、日本と同じ状況)に変化していたからだ。

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2014/07/07

そこまでして行きたい学校

 パスカル・プリソン監督「世界の果ての通学路」をジョイランド沼津で見た。今回もまた貸し切りに限りなく近い観客数。ケニア、モロッコ、インド、アルゼンチンの地方のそのまたはずれの田舎から片道1時間以上かけて学校に通う子供たち。この景色と子供たちの表情が素晴らしい。特に学校にようやくたどり着いて、教室で生き生きとした表情で学ぶ姿が良い。この映画で一番いいなと思ったのは、体が不自由でオンボロ車椅子に乗って通学している男の子が弟たちの力で遅刻ぎりぎりで学校の門まで来て、クラスメートたちがたくさん駆け寄って車椅子をみんなで押して教室まで行くシーン。
 ところで、邦題の「世界の果て」という言葉は原題にはないし、映画自体もそう捉えてはいない。日本人から見たら「世界の果て」に見える場所ではあるが、そこにいる人たちにとっては自分の世界の中心である。わざわざ「果て」という言葉をつける必要はあったのか?
 エンドタイトルの最後に、あのディズニー・プロがフランスでの配給会社であることが書かれていた。イッツ・ア・スモール・ワールドにつながるドキュメンタリーではある。
 

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2014/07/05

マツダ626(5ドアハッチバック)の生涯

 「ダブリンの時計職人」ダラ・バーン監督作品を見た。ジョイランド沼津でだが、かろうじて貸切にならない観客数。ドキュメンタリー・タッチで画面が揺れる。ラストあと10分くらいのところで、この画面の揺れに酔ってしまい画面を見られない気分不良状態になってしまった。ホームレスの主人公の友人の青年が痛ましい最期を迎えるあたりだ。多分、その相乗効果もあったように思えるし、寄る年波と日ごろ積み重なった疲労もあったように思う。

 ラストシーンでテレビに悲しげな表情の犬のアニメが映ったがこれはなんという作品なんだろう。テレビシリーズ風ではない絵と動きだった。エンドタイトルは揺れたりしないのでしっかりしみたが、このテレビに映った作品がなんだか分かる文章は見つけられなかった。

 ナンバープレートをはずされ落書きされた古い車がクレーンで海辺の駐車場から撤去されるシーンで始まるが、この車がちょっと気になった。デザイン的に古いフォードの車みたいだと思った。このシーンから映画は時間を遡り、この車が撤去されることになった経緯を語り始める。ホームレスの主人公がこの海岸沿いの駐車場に止めてそこで生活をした車だったのだ。この車は4ドアセダンのように見えたのだが、リヤハッチがある5ドアで、この5枚目のドアにマツダのマークが付いている。これで海外のみで発売されていたカペラの5ドアセダンであることが分かった。同時期に日産のプリメーラにも英国工場で作られていた5ドアがあって、これは日本に逆輸入されて少数だが販売された。カペラの5ドアは日本未発売だった。

 アイルランドのダブリンって、こんなに遠浅の良いビーチがあるんだ、と思う。もっとも、ダブリンについては「ザ・コミットメンツ」の舞台としてしか知らない。

 邦題に時計職人とあるのでそこから連想される映画のイメージとはかなりかけ離れていて、最初は戸惑った。原題は、Parked で、このタイトルの方が単刀直入に状況を表現している。邦題は多分に叙情的である。この映画は叙情的ではあるが、厳しい現実を淡々と描いているのがいい。

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2013/08/06

スタンリーのリュックはポケモン

ジョイランド沼津で「スタンリーのお弁当箱」見た。一人お弁当を持ってこれないスタンリーを仲間はずれにしないクラスメートたちが素晴らしい。この子供たちの生き生きとした表情を撮った監督の力量と使命感に感服。

被写界深度がかなり浅く、子供たちの動きが早いシーンで画面が見づらいと思うシーンがいくつかあったのだが、これは、子供たちに映画撮影をしていると意識させないためにビデオ撮影のできる一眼レフカメラ、キャノン7Dで撮影した、という解説を読んでムービーカメラではなかったんだと納得。子供たちの生きた表情を撮るための監督(子供たちのお弁当を食べてしまう国語教師で出演している!)の工夫があったのである。

 インド映画はどの作品を見ても女優が皆美女ばかりなのだが、この作品も、スタンリーを優しく受け入れる英語教師、ちょっと厳しく冗談が通じない理科教師を魅力的な女優さんが演じている。インド映画のもう一つの特徴のダンスシーンは、ないわけではない。

 スタンリーがなぜお弁当を持ってこれないのか、という謎解きもあってちょっとミステリーな味もある。同じテーマを日本で撮ったら文部省特選的教育映画臭ぷんぷんの、あくびが出ちゃうものになりそうなんだけれど、そうなっていないのが良い。日本の配給会社の宣伝もこの映画の本当のテーマには余り触れずに宣伝していて、それによって見る人が増えていると思われる。この真のテーマをたくさんの人にまず知ってもらうことは大事なことなんで、そういう意味では、的はずれな宣伝をしているわけではない。

 オープニング・タイトルが、黒板にチョークで描いたような線画のアニメーション。教室の黒板に子供たちが描いた落書きの先生の絵が動く、という発想だ。この動きのタイミングが絶妙で、才能のあるアニメーターが作画していることは確実。タイトルでこの作者の名を読み取れず残念。このオープニング・アニメの作者を調べたら、ギタンジャリ・ラオだった。2006年カンヌ映画祭で賞をとった「虹絵」Printed Rainbowの作者。「虹絵」は日本でもCS(ムービープラス)で放映されていた。知らなかったのは不覚。ムービープラスのホームページで再放送のリクエストをしてみよう。youtubeにもアップされていた。

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