「セロ弾きのゴーシュ」上映会について、伴野孝司さんとやり取りをしているときに、TCJの話題になって、東映動画が制作したTV用はリミテッドだけどきちんとアニメしてる、「鉄腕アトム」も動きはそれなりに動いてる、でも初期「鉄人28号」はひどい動きで、まるで素人が作っているようだけど、これについて何か知っている?という話になって、TCJについて書かれている本を3冊読んでみた。この3冊は読もうと思っていたが今まで読んでいなかったもので、ちょうどよい機会になった。
以下、TCJがテレビアニメ制作をし始めた頃についてどう書かれていたかをまとめてみた。
津堅信之著「テレビアニメ夜明け前 知られざる関西圏アニメーション興亡史」(2012)ナカニシヤ出版
京都精華大学の日本アニメーション史の研究者による関西におけるテレビ放送初期のアニメーション・コマーシャル制作会社が主題の本なのであるが、アニメーション・コマーシャル制作会社の嚆矢としてTCJ(Television Corporation of Japan)についての記述がある。リミテッド・アニメーションの手法を駆使して、サントリー「アンクルトリス」桃屋「のり平」のCMが作られていて、「鉄腕アトム」以前にこの手法が使われていたことを指摘している。テレビアニメを考えるうえでも、「仙人部落」「鉄人28号」「エイトマン」の質の異なる3本を同時期に制作していたことにより、虫プロよりもTCJの功労の方が評価されるべきだとも指摘している。
TCJがテレビアニメシリーズに進出し、1963年に「仙人部落」「筒人28号」「エイトマン」の3作を作ることになった時に、それまでの小規模なCMアニメ制作部門を3班に分け、同時に新人スタッフを一気に100名単位で募集、養成しつつ制作にあたった。
鷺巣政安、但馬オサム著「アニメ・プロデューサー鷺巣政安 さぎす まさやす・元エイケン製作者」ぶんか社(2016)
うしおそうじや吉田竜夫の本を出したライター但馬オサムが聞き手になって、鷺巣政安にインタビューしたものをほぼそのまま本にしたもの。但馬オサムが話を引き出すために当時のことを調べたことに基づき語っているが、その部分については根拠が乏しいものや記憶違いなのか、手元に資料を置いていないのか、怪しさを感じるものもある。出版社の問題か、誤植がかなりある。
鷺巣政安は鷺巣富雄(うしおそうじ)の弟。1958年にTCJ(Television Corporation of Japan Co.Ltd)に入った。入社したのは、コマーシャル・アニメーションを作る会社に替わったばかりの頃で、チーフ・アニメーターは後に大西プロを作る大西清で、サントリーの柳原良平のアンクル・トリスのキャラクターを使ったものが代表作。動画へ行きたかったが、彩色のチェッカーから仕事を始めた。TV初期の頃はアニメーションのコマーシャルが多かったが次第に実写のものが増えていき、TCJもそうで、アニメ部門の仕事として、テレビアニメーションの制作をすることになり、プロデューサー補佐の仕事をするようになった。兄のピープロダクションにいつか移るのではないかと思われていたが、アニメーション制作部門が独立してTCJ動画センターとなり、さらにエイケンという社名に変わって、高橋茂人のように独立することもなく、プロデューサーとして仕事を続けた。
「仙人部落」「鉄人28号」「エイトマン」の3本同時進行になった時、動画部門が3班体制となり、その3班のそれぞれが100人体制で、計300人のスタッフだった。多くの新人を一度に雇ったので、アニメーターは公民館を借り切って養成した。美大出身者や漫画家の卵に声をかけ、一般公募もした(元自衛官も応募してきた)。芦田漫画からの西島行男が「仙人部落」、大西清が「エイトマン」担当だった。「鉄人28号」は庵原和夫担当で、若林忠雄がチーフアニメーターだった。「鉄人28号」の制作が決まったのが一番最後だった。
ちば かおり著「ハイジが生まれた日」岩波書店(2017)
「アルプスの少女ハイジ」のプロデューサー高橋茂人への取材から、高橋茂人がTCJから始まって、瑞鷹エンタープライズを起こして独立し、「アルプスの少女ハイジ」に至る軌跡が書かれている。高橋茂人はこの取材の最終回の1週間後に亡くなった。
高橋は1955年、外車のセールスマンにでもなろうかと思い、柳瀬自動車(現:ヤナセ)にいくが、その時に、社長の柳瀬次郎からテレビコマーシャルを作る「日本テレビジョン株式会社」で日本初の仕事をしないかと言われて、1956年に入社する。この会社が名称変更したのがTCJである。当時、この会社は営業担当の業務部と制作を担う動画部の2セクションからなり、高橋は業務部に所属するが、絵コンテも描かされるなど、プロデューサー的役割でコマーシャルフィルム制作の現場を経験する。
動画部は、芦田巌率いる芦田漫画を丸ごと吸収して、年ごとに増えていく仕事に対処するために採用された新人たちを芦田漫画出身者が教育しながらコマーシャルアニメを制作していた。芦田巌は会社組織になじめず、すぐに辞めてしまったが、手塚治虫とともに芦田漫画の入社試験を受けてただ一人だけ採用された西島行雄などが中心になっていた。西島は後年TCJの制作室長になる。東映動画の「西遊記」に参加した後の手塚治虫が、自身のアニメスタジオを作る参考にとTCJに見学に来るが、そのとき手塚を案内したのは西島であった。
「鉄腕アトム」が放送された1963年、TCJでは「仙人部落」「エイトマン」「鉄人28号」の3作を同時期に制作する。このため、動画部を3チーム編成とし、それぞれが100人のスタッフを抱える、総勢300人の大所帯となった。この多くはアニメーションの経験のない新人たちで、国内からアニメーションの技術者を捜し、満州映画協会の元スタッフも雇い、新人を教育するとともに制作にあたった。
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