ミスター・ノーバディ
ジャコ・バン・ドルマル監督の2009年作品。遅ればせながら、沼津の映画館にかかったので見に行ってきた。
量子力学の多世界解釈をそのまま映画にしている、というのが第1の感想。この映画中で、主人公が科学番組のキャスターとして、超ひも理論やエントロピー、有性生殖、さらには複雑系のバタフライ・イフェクトについての解説をするのだけれど、なぜか量子力学の話だけは出てこない。
不老不死が実現した未来社会で、不老不死を選ばなかった最後の老人がその寿命を迎えようとしている。その男が誰であるのか突き止めたい医師らによって、男は自分の過去を振り返らされるのだが、その際、ありえたかもしれない過去をすべて語る。自分の本当の名前は思い出せず、ニモ・ノーバディという仮名で、である。
ところで、ニモといったら、ウインザー・マッケイの「夢の国のリトル・ニモ」である。この老人もベッドの上で半ば夢を見るように、死ぬこともなく性への欲望も必要のなくなった未来人のインタビュアーに、自分の物語を語る。この物語は一人の人間の人生であるとしたら矛盾だらけである。それゆえに、マッケイのニモを連想すると、この映画全体がニモ少年の夢(それも女の子にもてないSF少年の夢)そのものという解釈も捨てることができないのだが、未来社会の誰もがこの老人を誰であると特定できないのなら、シュレーディンガーの猫のように(34歳以降死んでいるのか生きているのかわからない状態でこの時を迎えることになったようであるのも、シュレーディンガーの猫っぽい)、可能性のあるすべての状態(人生)の重ね合わせとして、この老人を受け入れるべきであろう。
逆に、特定できた時点で老人の人生は一つに定まり確定する。その特定を映画の中の登場人物でなく、映画を見る人に任せているようにも思えるのだが、老人が最期を迎える直前に、特定されるような老人の一言があり、その人生に確定するようなエンディングとなる。振り返れば、その人生が一番ドラマチックに描かれていたように思える。
SF映画でありながら、恋愛映画を3パターン分(①女が片思いで思いを遂げたが・・・②男が片思いで思いを遂げたが・・・③相思相愛なのに引き裂かれて・・・)見たことにもなる、欲張った映画。SF映画としても、宇宙SFと近未来ディストピアSFの2パターン分ある。もっとも、どの部分をとっても、どこか別の映画で見たイメージの連続で、映画少年だった監督が撮りたいシーンだけを脚本と編集の力技で一つにした映画とも言えるだろう。私にとっては「ガタカ」以来のSF映画ベストリストの上位に入る作品。
そういえば、ジャコ・バン・ドルマル監督の前作「八日目」を、見た年の映画ナンバーワンにしたこともあった。
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コメント
たまたま読んだ本で得た知識による蛇足。
ニモはNemoと綴る。ラテン語で、誰でもない、つまり、ノーバディという意味だそうだ。
投稿: WILE.E | 2011/11/09 21:41