「V.」(新潮社版)
大学時代のある日、静岡市内の某書店の洋書売り場で、風に吹かれてスカートのすそがひらひらとしている女性の表紙絵の分厚いペーパーバックに出会った。著者名に聞き覚えがあるとはいえないTHOMAS PYNCHONの「V.」であった。その表紙と「V.」一文字のタイトルに引かれ、さらには、ドイツ軍のV1号2号に関係する話かもしれないと勝手に想像して、買ってしまったのであった。当時のSF仲間で現在は翻訳家になっているMさんに、THOMAS PYNCHONの「V.」というのを良くわからずに買ってしまったのだがどんな本なんですか? と質問したら、あなたは洋書の鬼ですか、という返事が来て、詳しく教えてもらった。そして、「Gravity's Rainbow」「The Crying of Lot 49」の2冊のペーパーバックも購入、とりあえず一番薄かった「The Crying of Lot 49」を何とか読んだ。ジェームス・クラーク・マックスウェルとレオン・シュレジンガーが並列されているのに感激し(当時の自分が熱心に読んでいたのは、ランダウ&リフシッツ「場の古典論」と森卓也「アニメーションのギャグ世界」だった)、邦訳が出版されるのが待ち遠しい作家になった。
就職することになった年の3月に国書刊行会からゴシック叢書の1巻として「V.」が出た。早速読んだ。そのときの読後感は微妙だった。エントロピーの法則(熱力学第2法則)が、すでに訳されていた短編の「エントロピー」と同様に「V.」でも発想の元になっていることはわかり、通常の予定調和的ストーリーを拒否して、謎に関する情報らしきものが増えるにつ入れて混沌の度はかえって増していくということだろうという納得をしたのだった。
それから約30年、この3月に小山太一と佐藤良明による新訳が新潮社から出た。今回も時間がかかり、やっと読み終えた。内容の多くは忘れていたので、こんな面白いエピソード(エスターの鼻の整形手術など)があったんだと再認識。国書刊行会版の訳では微妙に曲に合わない日本語になっていた「デビー・クロケットの歌」や「ミッキー・マウス・マーチ」の替え歌がちゃんと曲のとおり歌えるので、さすが佐藤良明と感心した。
国書刊行会版でも気になり、今回の翻訳でも気になるのは「早撃ちゴンザレス」(新潮社版では上巻p.169に登場)と訳されている名前。原文では、Speedy Gonzalesとなっていて、これはかのルーニーチューンのメキシコ一の快足ねずみ、スピーディー・ゴンザレスと同じつづり。ワーナー漫画のスピーディー・ゴンザレスは、1953年に「メキシコ料理は結構の巻」Cat-tails For Twoでデビューしていて、1955年の2作目の「スピーディー・ゴンザレスの巻(最近のカートゥーン・ネットワークの放映では、「チーズはいただき」)」Speedy Gonzalesでアカデミー賞を取っている。1955年のクリスマスから「V.」における「現在」が始まるので、年代的にはちょうど合う。ただし、快足ねずみのゴンザレスは「セニョール、お手をケツからどけてください」(新潮社版より)というセリフは言わない。国書刊行会版を読んだときには、「世界アニメーション映画史」の著者の一人の望月信夫氏に聞いてみたのだが、森卓也さんにでも聞かないとわからないと言われた。森さんに聞こうかと逡巡している間に、テレビで「バッグス・バニーとゆかいな仲間たち(マンガ大作戦)」が放送されるようになり、スピーデイー・ゴンザレス作品のほとんどを見ることができた。私の見た限りでは、ゴンザレスはこのようなセリフを一度も発していない。ピンチョンは事実をアレンジして少々違えて書くことがあるのだが、カートゥーンの設定的には、猫に尻をつかまれて手を離せ、というのはありえる。この「早撃ちゴンザレス」が出てくる前に「プロヴォーネ・チーズを一つ」という文章があるので、チーズ工場からチーズを盗むスピーディー・ゴンザレスと解する方が、私的には楽しいのだ。
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