フリッツとカール
実は私は理科の中で化学が一番好きではなかった。特に、化学の実験が好きではなかった。薬品を溶かした水溶液やらガスバーナーを扱うのが苦手だった。日常生活でも、ちょっとした道具を使って何かをするとき、やけどするとか、切り傷を作るとか、こぼすとか、よくあり、母親からも妻からも不器用で見てられない、と言われてしまう。そんなこんなで、化学に関する本は、物理や宇宙、あるいは生物などに関する本よりも読んだことはなかった。
そんな自分が久しぶりに化学を教えることになって買い込んだのは、教科書にも出てきて、入試にもよく出るハーバー・ボッシュ法の発明に関する本「大気を変える錬金術 ハーバー、ボッシュと化学の世紀」(トーマス・ヘイガー 渡会圭子・訳 みすず書房)である。読んでみたら面白かった。ハーバーとボッシュの発明は、原爆に匹敵する科学と技術が結びついたものであり、さらにその後の世界を大きく変えたものであった。
この方法について、アンモニアの直接合成と気軽に授業中に教えていたのであるが、これが実用化されなければ窒素肥料は大量生産できず、高性能の爆薬も量産できなかった。技術的には、高温・高圧化で水素を扱うというきわめて危険な課題を克服している。実際には事故も起きていた。本文中唯一といえる図版がオッパウ工場の爆発事故の写真で、その事故のひどさがわかる。実験室のスケールで実現できることと、工業生産のレベルで実現できるということの違いも良く理解できるように書かれている。この工業化の過程で、金属への水素吸着が問題になって詳しく調べられていたというのも初めて知った。
ボッシュというと、自動車部品メーカーを連想するのだが、ハーバー・ボッシュ法のカール・ボッシュとは無関係だった。何か関係があるのかと思ったのだが、どちらも南西ドイツ出身というくらいしか共通性がないようだ(自動車部品メーカーの方は、ロバート・ボッシュ)。南西ドイツではよくある苗字ということか。カール・ボッシュは、ドイツの化学メーカーBASFの一技術者から経営者となり、かのIGファルベンを成立させた。第2次大戦中のドイツ軍の燃料の多くは、ボッシュがハーバー法の実用化の次に人生をかけた合成燃料工場で作られていたのだった。
本書の最後では、地球全体の窒素循環について触れられており、この本の著者の本当の狙いは、この窒素循環の問題の方にある気がする。農作物の生産のために合成窒素肥料が世界中でたくさん使用されているが、植物に取り入れられない分は環境中に捨てられ、一部は大気に入り酸性雨と温暖化の原因物質になり、残りは湖水・海洋中に流れ込み、富栄養化その他の汚染を引き起こしている。
ハーバーとボッシュは、空中窒素が固定できればチリ硝石の奪い合いをしなくてすむ、と考えて発明にいたったが、その結果、地球全体の窒素循環に影響を与え、それが逆に人類の生存に関係してしまうとは想像できなかった。ハーバーの方法を大規模化しようとしたボッシュであっても、地球は無限大の存在だった。自分の工場1つだけならそれでよかった。しかし、現在、世界中の国々にハーバー・ボッシュ法の肥料工場がある。スケールの拡大によって違う事象が現れるという認識をきちんと持たねばならないのである。
地球は有限である、ということを常に心に留めておきたい。
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コメント
化学工業史を見ていた時の参考文献にハーバーの著作がありました。といっても息子の方のL・F・ハーバー。第一次世界大戦までの部分は翻訳本があったのですが、そこから先の部分は英語本のみ。頑張って探して買ったけど大部過ぎて読めませんでした(苦笑)。
投稿: くーべ | 2011/05/29 08:00