「非線形科学」蔵本由紀(くらもと よしき) 集英社新書
福岡伸一「生物と非生物の間」では、生物は「動的平衡にある流れ」と定義されているのだが、この「動的平衡にある流れ」というのは、物理の、あるいは、熱力学の言葉では、「非平衡開放系(または、非平衡開放定常系)」になる。同じ「平衡」という言葉が入っていながら、物理の用語の方には、打ち消しの「非」がつく。「平衡」というのはバランスということだから、一方ではバランスしているといい、他方では、バランスしていないという、実にアンバランスな不思議な話だ。
これは、次のような、用語の使い方の違いのために生じることである。生物の方の「平衡」は、物質やエネルギーが入ってくるものと出ていくものとでバランスしているという意味である。一方、物理の方の「非平衡」は生物が環境と熱平衡になっていないということである。、言いかえると、生きている生物の体温は周りの気温より高いということだ。この状態にあるとき、生物は、物質やエネルギーを取り入れて、不要になったものを排出することができる。つまり、物質やエネルギーの流れが維持され、生物の体の秩序が保たれるということだ。ということで、実は、同じことを意味しているのだ。
非平衡開放系の特徴は、非線形性である。その非線形性についての一般向きの本が表題の本である。この本の面白いところは、私がカオスについての解説書などを読んだときに感じた、非線形を取り扱う科学は面白いのだが、量子力学に代表されるような物理学の理論のような原理となる科学にはなりえていないのではないか、ということを、プロローグできちんと問題として掲げているところである。そして、エピローグでこの問題に戻り、それに対する確かな答えをいまだ手にしていないと、正直に述べている。しかし、そのあとで、科学の言葉で自然を描くというのは「不変なもの」を通して描くことだ、複雑な物を複雑なままに取り扱う非線形科学においても「不変なもの」を見いだしていて、それは、要素還元論的な素粒子物理学とは違う座標軸のものであるが、「不変なもの」を見いだすということでは同じ科学であり、要素還元論に偏りすぎている現状から科学者はそろそろ脱却すべきだ、と述べ、これが藤本のもっとも主張したかったことだろう。
非線形科学の立場からは、生物と非生物の間に同一性を認めている。その同一性の1つが、べき法則性である。生物についてのべき法則性は、ちょっと前に話題になった本川達男「ゾウの時間ネズミの時間」の中心的話題である。この本も、福岡の本と同様に、DNAマシーンとしての生物という見方に一石を投じるために書かれたような本だった。DNAから生物を見る見方も、「動的平衡にある流れ」という生物の見方も、どちらも、シュレーディンガーが「生命とは何か」で指摘した2つのこと(遺伝子の正体は量子力学の原理に従う非周期性分子、生物は負のエントロピーを食べて生きている)の発展型である。今更ながら、シュレーディンガーの洞察の凄さに感心する。
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