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2007/07/21

「ある島の可能性」読了

 ウエルベックは、この作品で、理性の方向にのみ進化した新人類を登場させている。その一方で、現代および近未来を生きるダニエル(ネオ・ヒューマンの呼び方ではダニエル1)を性の快楽に取り憑かれたような男として描いている。この対比は「素粒子」における弟と兄の対照と同様である。この作品でも仏教の経典からの引用があるが、聖と性を合一した真に解脱した未来人の姿はない。レムもそうであるが、ヨーロッパの知識人というのは、知性と理性にだけ進化の方向があるように考えているのではないかと思ってしまう。このへんに「ある」か「ない」かの二分法が基本になっているヨーロッパのキリスト教的知的伝統を感じると同時に、仏教に憧れながら(あるいは、仏教的な考え方を支持するかのような量子力学を受け入れながら)、存在と非存在を同一の状態であると見なす境地には、我々日本人のように簡単に達しないのではないかとも思うのである。

 ところで、ネオ・ヒューマンは遺伝的には我々人類とほとんど同一のなのだが、人為的に、つまりは遺伝子操作で独立栄養生物化している。つまりは、植物化した人間である。植物的な生き方が、真にエコロジカルな生き方であるという主張を何処かで読んだ気がするが、ウエルベックは、この小説中で、エコロジストを痛烈に批判している。と同時に、このような新人類を生み出したのが、とある新興宗教(ちゃんとモデルになった新興宗教が実在しているそうだ)であるというのは、実にありそうである。

 この小説の最後で、ネオ・ヒューマンのダニエル25(ダニエルの遺伝子を引き継ぐ25代目)が荒廃した地球を冒険して回るのだが、これはレムの「宇宙からの帰還」のラストを連想させた。「素粒子」の終わり方よりも、妙な爽快感があった。

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